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オスマン帝国総合案内所
【オスマン帝国とは】
1299年〜1922年頃にトルコ系のオスマンによって建てられた大帝国。1453年には東ローマ帝国を滅ぼしコンスタンティノープルを占領、イスタンブールと改名して首都とした。イスタンブールは現在もトルコの首都で、ボスポラス海峡を挟んでアジア(アナトリア半島)とヨーロッパ(トラキア地方)の両方にまたがっており、2大陸にまたがる大都市である。
【オスマン帝国の世界史】
オスマン帝国の世界史の詳細は、こちら
  • いわゆるトルコ人は、元々モンゴルから中央アジアにかけて遊牧生活をしていた。しかし、イスラム国家に騎馬兵として重宝され、徐々にイスラム教に改宗しつつ、西に移動していった。
  • 1299年、オスマン・ベイという人物が、アナトリア地方で建国。「オスマン帝国」の名前は、建国者がオスマン族だったから。その後、ダーダネルス海峡を渡って、ヨーロッパに領土を拡大。ヨーロッパのバルカン半島アドリアノープルに首都を移す。ムラト1世の統治下で、白人キリスト教徒の少年を奴隷として集めた軍隊を結成。
  • 1402年、アンカラの戦いで、ティムールに敗北し、一旦オスマン帝国は滅亡する。
  • 1453年、メフメト2世は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。オスマン朝は、コンスタンティノープルに首都を移す。コンスタンティノープルはやがて、イスタンブールと呼ばれる。
  • 1526年、ハンガリーを破って、属国とし、ドイツ、ローマ帝国に侵入、オーストリアの都ウィーンを包囲した。1538年には、スペイン・ヴェネツィア連合軍を破って、東地中海の制海権を確立。さらに、チュニジア、アルジェリアなどアフリカ北岸、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土となった。スレイマン1世(在位1520〜66)の統治下でオスマン帝国は、最盛期を迎える。
  • 1571年には、レパントの海戦で、スペイン無敵艦隊に敗れた。さらに、東西貿易の主流が地中海から大西洋に移ったことも追い打ちとなった。18世紀末になると、ロシア帝国の南下により、オスマン帝国の小康状態は破られた。フランス革命やギリシャ独立戦争などを経て、オスマン帝国の領土は、バルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。
  • 1920年、国の大半を連合国に分割するセーヴル条約が結ばれた。この国家存亡の危機にムスタファ・ケマルが立ち上がり、アンカラにトルコ大国民議会を組織した。1922年、廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国は名実共に滅亡した(トルコ革命)。翌1923年、トルコは共和制を宣言、多民族国家オスマン帝国はトルコ民族のトルコ共和国となった。ケマルにアタテュルク(父なるトルコ人)という称号が与えられた。
【オスマン帝国由来の観光名所】
  • スルタンアフメット・モスク」・・・オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。設計はメフメト・アー。世界で最も美しいモスクと評される。
  • トプカプ宮殿」・・・15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。
 
【厳選リンク】
トルコ観光局 トルコの観光情報が満載。
地球の歩き方 トルコの歩き方を徹底解説。
AB-ROAD トルコのツアー旅行の一覧。
世界史講義録 オスマン帝国について詳説。
【豆知識】
  1. トルコのことを英語で「Turkey」と呼ぶが、これは、トルコ経由でヨーロッパに持ちこまれた七面鳥に由来している。
  2. 最盛期のスレイマンは、妃との愛に溺れ、政治が混乱して衰退につながった。
  3. 親善訪問に訪れていたトルコのエルトゥールル号が難破した際、日本人実業家や日本政府が救助活動にあたり、多くの命が救われた。時代は過ぎて1985年のイラン・イラク戦争の時、イラクはイラン上空の航空機を無差別に攻撃すると宣言したが、日本政府の対応は遅れ、215名の日本人がイランに取り残された。困った駐イラン日本大使館は、トルコ政府に救援を要請したところ、トルコ政府は快諾、トルコ航空機を派遣して日本人全員を救出してくれた。


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