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ナポレオン総合案内所
【ナポレオン総合案内所とは】
フランスの英雄ナポレオンの世界史を提示し、それにまつわる旅情報なども提示します。これを読んで、ナポレオンの足跡をたどる旅に出かけましょう。ナポレオンの世界史を知れば、旅をもっと楽しめる。旅のお供に極上のナポレオン情報をご紹介。
【ナポレオンの世界史】
ナポレオンの世界史の詳細は、こちら
  • 1769年、ナポレオン・ボナパルトは、イタリア半島の西、コルシカ島で生まれた。貧乏貴族の出身で、パリの士官学校に入ったが、不人気の砲兵科で学ぶ。ナポレオンは、目立たない上に、成績もあまり良くなかった。
  • 1789年、ナポレオンが軍人となって6年目、フランス革命が始まった。ルイ16世やマリー・アントワネットが糾弾され、貴族たちの亡命が盛んだった。ナポレオンは、軍部にコネを作り、少将に出世する。しかし、クーデターで逮捕・左遷される。
  • そんな中、大物政治家バラスの愛人であるジョセフィーヌに一目ぼれ。
  • 1795年10月、ヴァンデミエール反乱という事件が起き、バラスはナポレオンに鎮圧を命じる。ナポレオンは、大砲を用いて見事鎮圧。国内軍司令官に就任する。
  • イタリア遠征前に、バラスの勧めもあって、ジョセフィーヌと結婚する。イタリアで連戦連勝。なお、この時、フランスだけが革命によって封建制度が崩壊したが、イタリアなど他のヨーロッパ諸国は、まだ封建制度が続いていたことも追い風となった。
  • しかし、欲張ってエジプトにまで攻めたのが仇となって、ナポレオンは、孤立してしまいます。そこで、1799年、クーデターを起こし、独裁者として君臨する。国民の人気はあり、内政で手腕を発揮。
  • 1805年、フランス艦隊は、イギリスに向け出撃しましたが、完敗。しかし、ナポレオンは諦めませんでした。海がダメなら陸がある。そう言わんばかりにイギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外のヨーロッパ大陸を支配下に治めます。
  • しかし、イギリスとの貿易を封じた「大陸封鎖令」などの独裁に各国の国民が反発。そんな中、ナポレオンは、ロシアを制圧するため出兵。一旦は、モスクワを制圧するも、冬の寒さで兵が減り、結局、敗戦。ナポレオンは島流しに。
  • 変わってフランスを統治したのは、ルイ16世の弟。しかし、これが国民に不人気で、ナポレオンは復活。皇帝になるも、イギリスなどの連合軍に負け、再び島流し。最後はイギリス人に毒を盛られたという説もある。
【ナポレオン由来の観光名所】
  • オテル・デ・ザンヴァリッド」・・・ドーム教会の地下墓所の中央にはナポレオンの柩が置かれており、一部は軍事博物館として公開されている。
  • セントヘレナ」・・・ナポレオンが二度目に幽閉された島。このことが島の観光資源となっている。
  • ジュブレ・シャンベルタン」・・・ナポレオンが愛したワイン。
  • エトワール凱旋門」・・・1806年、ナポレオンの命によって建設が始まった。1836年に完成したが、ナポレオンは既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時であった。
 
【厳選リンク】
ニッポンレンタカー ナポレオンの足跡を訪ねた特集。
アジャクシオ ナポレオンの生家などを紹介。
AB-ROAD フランスのツアー旅行の一覧。
世界史講義録 ナポレオンについて詳説。
【豆知識】
  1. ナポレオンと同じ時代を生きた人物にベートーベンがいる。ベートーベンは、ナポレオンの反貴族社会の考えに共感し、ナポレオンをテーマに交響曲「ボナパルト」を作曲する。しかし、ナポレオンが貴族社会の本丸、皇帝になったと聞き、激怒。題名を変えて世に出した。それが交響曲第三番「英雄」。
  2. 出世しだした1794年ごろから、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名。
  3. ギネスブックによると、歴史上の人物でもっとも多く映画に登場したのはナポレオンである。


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